私の心をいつも惹きつけ離さないものが二つある。本。そして異国の文化。「異国」とは、私の母国アメリカ以外の国。私はニューヨークの、異民族が渾然一体となりそれでいて誰もがそれぞれの文化の根源を大切にしているような地域で育った。そこで私はフランス語の学士号と多額の学資ローンと国際的な組織で働きたいと言う強い意思を手にコロンビア大学を卒業した。

私の歩む道は大きな日本の商社のニューヨークオフィスで働き始めたとき明らかになった。私はカルチャーショックに陥るよりも異文化に魅了されたのだ。そうしてさらに二年間を日本語と政治経済の勉強に費やした。博士号と更なるローンを抱え東京へと移り住んだ私は激動の株と不動産市場へと飛び込んだ。そこで私は私の人生の中でもっとも興味深い数年間を日本の国際化と経済的成熟の様子を目の当たりにしながら過ごしたのだった。

東京を離れてからも私は常に日本を見つめ続けている。はじめは香港在住のファンドマネージャーとして、そして最近はイギリス南部に暮らし”カルチャーショック”を感じるアメリカ人作家として。時折の日本訪問は気まぐれなイギリスの田舎暮らしを埋め合わせ私の心を癒してくれる。このように離れたところから視点を変えて日本を見つめなおすことが私の経験や日本に対する愛情を純化し、より魅力的な物語を書き上げることに役立つことを心より願っている今日この頃である。

buddha

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私の日本での暮らしは70年代半ばのニューヨークシティーに始まる。大学を卒業したばかりだった私は三井物産USAのファイナンスデパートメントで働くことになった。その頃の私は日本について着物、空手、漢字ぐらいしか知らなかった。それはひとえにそれまでの私の興味、学習の焦点がヨーロッパへと向けられてきたがためであって、日本になんの偏見もそして先入観さえもほとんど持っていなかった。

パンナムビル(現メトライフビル)の高層階-どの階だったかもう思い出すことができないのだが-のエレベーターを降りるとそこは別世界だった。働くスタッフの半分以上は日本人。広大なしきりのないオフィスを埋める机の列は全て素晴らしいマンハッタンの景色が眺め渡せる窓に背を向けて並べられていた。私は壁に面した最前列にある私の机に着いた。するとどこか後ろのほうから何度も”はい“と叫ぶ声が聞こえ、私はいったい誰がオフィスで空手をしているのかと後ろを振り返ったのだった。

私はすぐに、電話で話しながら机でお辞儀する人たちや最終決定が東京の本社へと託されることやチームランチといった私にとっては目新しい習慣にも馴染んでいった。また、すでにいくつかの語学を習得していた私は仕事に関する日本語も自然と身につけ始めていた。そして私の上司が日本と電話で話していた案件に関する書類を英語で説明される前に手渡したとき、彼の顔に驚きとうっかり日本語でへんなことは言えないなといった困惑の表情が浮かんだのである。

3年半の三井物産での日々で最も印象に残っているのは日本人の上司や同僚がまだ新人だった私をも尊重してくれたことだった。新しい仕事を学ぶ機会を次々と与えられた私は少しずつオフィスでのポジションを上げていった。もしあのまま勤めていたら日本人スタッフを従えて課を仕切っていたアメリカ人女性ジェンモンタルトのようなシニアマネージャーに私もなっていたかもしれないなと思う。それは私が性別や人種的差別をまったくといっていいほど感じることなく働くことができたからであろう。ワシントンDCへ引っ越すことになった私は残念ながら会社を後にすることになったのだが、そこでの経験は忘れえぬものとなり私は日本そして日本語の勉強をすることを決意したのだった。